2021/09/16
法華経『薬草喩品第五』=あなたは草でなく樹木だ
仏教の信仰を持ったことのない人には、お経は、葬式の時に聞く意味不明の呪文というふうに、思っているかもしれない。しかし、別に、法華経の「長者窮子」のたとえばなしをご紹介しているように、法華経は、真の自己に目覚めるべきだ、と説いているのである。法華経の巻第三「薬草喩品」(やくそうゆほん)でも、宗教や聖職者など何かに依存する精神(草の精神)ではだめだ、あらゆる束縛から離れた自由人(樹木の精神)になれと法華経が説いていることを見てみよう。これも、たとえを理解して人生上での参考にする程度にしか理解されておらず、禅を含んだ実践をすすめていると解釈がされることは少ないようである。文字と現実の実践がずれているからである。
法華経に書かれている「薬草喩」のあらましは、次のような話である。
「薬草喩」のあらまし
釈尊の説法を聞いて感激した弟子が、釈尊の教えをこのように理解したが間違いないでしょうか、と「長者窮子」のたとえ話をした。釈尊は、それを聞いて、「お前たちはよく理解した。」といって、さらに、釈尊は、次のような「薬草のたとえ」の話をされた。
(A)山や渓谷には、様々な草や木がはえている。性質も大きさも違っている。天からの雨は、これらの草木に、平等に降り注ぐ。草木は自分に必要な分量の雨を受けて、 様々な大きさに育つ。
(B)それと同じように、仏道に励む人々も同様である。釈尊が説く仏法は、一つのものであるが、それを受ける人々は、自分なりに受け取り、様々に育つ。こう言った後、 釈尊は、草木と仏道修行者を5種に分類して次のように、説明された。
(1)「小さな草」は、「汚れのない教えを知り、「さとり」の境地に達してとどまり、六種の神通力と三種の学識のある人々」(1)である。
(2)「中くらいの草」は、「山中や渓谷にとどまって、各自それぞれの「さとり」を望み、なかば清浄な理性をもつ人々」(2)である。
(3)「最高の草」「大きい草」は、「『わたしは人間と神の主である仏になろう』と、仏の位を熱望して、精進して瞑想に専念する人々」(3)である。
(4)「低い木」は、「この世において、慈しみと平静な修行に努めて専念し、仏の位に到達しうる確信を得た仏の息子たち」(4)である。
(5)「高い木」は、「転がりかえることのない車輪を回しつづけ、神通力を発揮して、巧みに幾千万という多くの人間を苦しみから解放させる人」(5)である。
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