方便品第二

2022/04/16

方便品十如の解説
仏様が法華の会座を開かれた最初      

第一の説法で、一切の人を仏にする大事な考え方の根本になるお話です。それには諸法の実相を究め尽くすということです。問題は諸法と実相と二つになりますが、一つのものの二面の見方、考え方と存じます。それ故説明は二つになります。今の十如は「所謂諸法如是相云々」とて諸法の説明になります。世界中どんなものでも十通りのものを具して居てそれが、どんなものにも共通しているのが「如」ということなのです。今お菓子の饅頭を「十如」のお話としますと、
円くて甘そうな姿が                 「相」
甘くて柔らかで口当たりがよいのが          「性」
饂飩粉と小豆と砂糖がまじったのが          「体」
投げても圧へてもつぶれないでいるのが        「力」
食べるとお腹がふくれ力が出るのはその働きで     「作」
粉とか砂糖とか小豆とかふくらし粉とか水のようなものが「因」
お菓子屋さんがそれを上手にこね合わせて拵えるのが  「縁」
いよいよ出来上がった処が              「果」
いつ何処で食べても人の食指をそそる処は       「報」
一番始めの「相」もおしまいの「報」も一つの饅頭から離れたものではありません。その内どれが欠けても満足の饅頭にはなりません。されゆえ「相」から「報」までの九つは何れも同様で一つのものだというのが本末究竟等というのです。これは私共人間の上でも畜生でも品物でも、どの一つをとって見ても因縁果報等のないものはありません。勿論相体力作のないものはありません。斯様に十通りのものは共通してかわりがありません。故にこれを十如と申すのであります。
 さて同じ菓子でも、饅頭、羊かん、せんべい、大福餅皆姿形、拵方(こしらえかた)、味い皆ちがいます。そのちがった見かたを假有とも假諦とも申します。姿形はちがっていても皆相性体等をそなくて居らないものはありません。そう見てくると何もかも別なものでないことがわかります。かく皆同じと見るむきを空とも空諦とも申します。然しつまりは假有とも空無ともきめられません。そこで中諦と見ることも間違いではありません。それ故、十如の文を時、如是相の一つでも如はかわりない見かた即ち空諦になり、相は假諦になるのです。だからこの一句にも三諦を兼ね備えて居ります。そこでお経を読むときは所謂諸法以下を三度に読むのです。即ち如是相、如是性と相で切って読めば假諦の読み方、是相如と言う様に如で切って読めば空諦の読み方、相如是と言う様に是で切って読めば中諦の読み方になるのです。然し句切をやかましくつけないでもその心もちで三度に読めば三諦の読み方になるわけです。先きの十如と同様にどんなものでも、よく考えて見ると皆三諦をそなえて動かない処であります。これを三諦即一とも三諦円融とも言われるのであります。斯様な理屈は兎も角として、私共凡夫も仏も十如や三諦を土台として見るべきときは皆同じことになりますので、凡夫が仏様になれない筈はないというのが衆生成仏の根底をなすので、法華経迹門十四品の内に残らず皆成仏の記別をうけられたのであります。(記別とは証明のことです)

 

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