2024/01/07
「
有無」と言えば、有ることと無いことという二つの対立する概念を組み合わせた語ですね。生死、黒白、善悪、是非なども、広義にはこの有無をあわす語に属するといえましょう。
「有」なのか、それとも「無」なのか、どっちだろうということを有耶無耶(ウヤムヤ)と言いますが、今ではこの語は「もやもやしたものがあってハッキリしない」意に使われております。また、有無を言わせずという時は、有なのか無なのか、相手に判断する隙を与えないということから、「相手の承知不承知にかかわらず」という意になったようです。
それにしても私たちは、何でもどちらかに決めたがる傾向が強過ぎないでしょうか。だいたい世の中には、そんなにハッキリ分別できるものばかりあるとは限りません。事物の本体は、有とも無とも決めつけられないものが多く、仏教ではこれを「無記」と言って、あえてそれについては記することをいたしません。また仏教では、私たちが死んだらあの世に生まれて常住であるとする「常見」を有、死んでからは散滅して全く何も無くなってしまうとする「断見」を無とし、これを「有無」とします。そして、この「有無の二見」は、正見に非ざるをもって邪見としているんですね。
仏の教えは、人が悟らなければならないことだけを説き、第一義だけを追求してゆきます。たとえば、人が毒矢で射られた時に毒矢を抜いて毒の手当をするのが第一義であり、「しばらく待て、誰がこの矢を射たのか、どんな矢か、それがわかるまで抜いてはいけない」等と言っていたら、手当が遅れて死んでしまうでしょう。わかりようもないそんなことは放っておいて、いま何をしなければならないのかを考えるべきです。
わざとウヤムヤにするのは困りますが、有無を論ずるより、自分の生老病死という苦しみから脱することが先ではないか。そういうことなんですね。
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