花 華 はなが降る

2021/06/06

もう十数年も前のこと、変わった面構えのぼくはん椿が我よ我よと真っ赤に咲き誇っているさまに目を奪われたことがあった。住宅街の庭先に突如として現れた。子丘程に大きくなった塊にしばし時を忘れ立ち止まってしまったほどである。今思うと、経文にある『』が降ってくるとはあの時の花を全身に浴びるようなものなのか。いやいや、それでは些か迷惑な感じがする。

「・・・天より曼陀羅華・摩訶曼陀羅華・曼殊沙華・摩訶曼殊沙華を雨らして、仏の上及び諸の大衆に散じ・・・序品第一」

そもそも花が降ってくるということはどういうことなのか。インドの気候によってなのか、生息する花の種類は少ないという。だから、花を捧げるという行為は大変貴重なことの表れなのである。そのなかでも、一番美しいであろうインドの蓮の花が天から仏さまの御上に降ったということは、仏さまの教えに感嘆し帰依したということを意味するのである。

そして、その美しい花が仏の上だけでなく、大勢の者の上に散ったということことにも注目しなければならない。仏さまの教えに一遍でも触れたものは、たとえ理解したか否かにかかわらず、縁を結んだということになる。その縁をもとに、どのくらいの年月を経るのか、現世では叶わぬのか、早かれ遅かれ、仏さまに近しい者となろうという約束を頂いたわけである。いわゆる、我々のことである。

美しい経文の表現は、ただ情景を描いただけではなく、行いそのものに意味合いが織り込まれているのである。そのサインを逃さぬように紐解いていきたい。

お問い合わせ

お問い合わせやご質問等についてはこちらよりお願いいたします。
また、毎月の鬼子母神講(毎月8日 午後7時)や七面さま講(毎月18時 午後2時~)へのご参加も
心よりお待ちしております。

日蓮宗 妙栄山 法典寺
〒418-0023 静岡県富士宮市山本371-1
Tel.0544-66-8800
Fax.0544-66-8550


pagetop