脳死とは・・

2021/12/01

 

「死」というのは、その時々の時代や社会の事情(要請)によって変ってくるものだ。時代を超えて人間の死というものを限定できるものは、ただ一つ、生物学的死と呼ばれる状態で、からだの全細胞が朽ちて見た目にもはっきりと分る物資的事実である。全細胞死とも言える。これには時間がかかる。やがて、時代とともに死というものを早く判断し、結論を出す必要が生じてきた。いつまでもほっておくわけにはいかないからだ。その時できてきたのが、「心臓死」。医学的には「三兆候死」と呼ばれ、呼吸の停止、心泊の停止、対光反応の消失(よく刑事が死体の目を見る、あれ)の3つの兆候により判断するものだ。判定ミスがすくないことから(つまり生き返ったりしない)、社会通念として広く認められてきた。
 しかし心臓が止ったからと言っても、しばらくは体毛は伸びるし、細胞の新陳代謝のすこしは行われる・・。つまり、心臓死とて生物学的な死ではなく「一種の社会的判断による死の早決め」だというわけである。
さらに新たに出現した「脳死」は、本来の死からは程遠い。肌に温もりがあり心臓も動いていればそれを死として受け入れるには、それなりの社会通念の形成過程が必要だ。「臓器移植」という時代の要請により求められるこの概念は、これまでの医学界の不透明さや、日本人の無宗教性など様々な要素とあいまって、なかなか社会通念として浸透しない事情がある。
国によってそのあたりの認識状況はかなり異なり、スウェーデンなどでは、かなりドラスティックな社会概念が作られているようだ。つまり、「脳が死に、個性がなくなれば人間存在の意味はない」という考えの元、「脳死も!死なのではなく、脳死が!死なのである」という脳死一元論(脳死=人の死)が死を決める基礎となっている。
臓器移植王国アメリカでは、まだ「脳死と心臓死はともに死である」という二つの死が併記されている。
方や、日本で97年4月に成立した「臓器移植法」は脳死と臓器移植に関して特徴的な内容がある。それは、“限定的ながら脳死を人の死”とした点である。つまり、『臓器提供をする人には、脳死は死であり、提供しない人には脳死が死であるかないかを特に論じない』ということ、臓器提供に絡めて言えば、『脳死になってそれを死んだと考える人にとっては死んだわけで、死んだと考えたくない人には死ではなく、したがって臓器適用も拒否できる』ということになる。
イギリスなどでは、「脳死は死ではないが、死に近いことを認め、臓器提供だけは可能にしようとする考え方で、脳死患者から臓器を摘出しても殺人傷害罪とならないための合意を優先」する“違法阻却論”をとっている。
臓器移植をとにかく推進するとか、脳死を何がなんでも死とする社会通念を形成したいとかいうスタンスではなく、もう少しの間冷静な視点で物事を見る必要がある。

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