昔の葬儀のはなし

2018/10/14

昔の葬儀がどうなっていたか
 人が亡くなると家族親戚ご近所が集まる
そこへ寺院から坊さんにきてもらい枕経
同時に葬儀屋さんと時間や人数などの打ち合わせをする
役所に℡して火葬場の予約を入れる
 長老者の中に必ず仕切りの翁がいて
通夜から埋葬に至るまでの手順を説明する
葬儀は自宅でするのが当たり前だった
隣保班の中で役配を決める
女性は殆どが煮炊きにまわる
 しょっちゅう炊き出しやっていたのが分かる
鯖の煮込みはA子さん
酢の物とお汁はB子さんなどとその班には必ず名人がいた
男衆は飲めればいいみたい処があった
まず最初に夕飯を家族親戚客人に食べさせて
それからお通夜が始まるのが普通だった記憶がある
 いずれにしても玄関の方では静粛に悲しみ悼んでいる中で
裏方は通夜振る舞いに向けてある意味お祭りみたく賑やかな一面もあった
今思うと懐かしくも隣仲良く共に生きるって事が自然に出来ていた
 小衲らが臨終経にゆくとご遺体前に進み芳名年齢などをメモる
行年(年齢)を聞くときに+1歳する事を理解するのに案外手間を取る
生命を得てお腹のなかで約1年過ごしてくるので
オギャーと生まれた時には1歳とするのが常識
これを数え年と言うけれど普段は用いず
亡くなった時にだけの年齢の事を言う
 「おっさん、じゃ先に枕経やって下さい」などと言われて始める
枕元で読むのでまくらぎょうって言うのだが
あまり好きな言葉ではない
臨終経りんじゅうぎょうの方が綺麗に聞こえる

 今では書き物はお寺で書くけれど昔は自宅で書した
今でこそまぁまぁ見られる字を書けるけれど昔はひどかった
何故自宅で書くかと言うと墓標ぼひょうと言うモノがあり大きく移動が大変だったから
そもそも墓標とは文字の如く墓を表す卒塔婆であり
別名は角塔婆かくとうばとも言った
上から見ると、□ 四面とも20㎝高さ3㍍のもの
善光寺ご宝前に立っている卒塔婆と同一のもの
真っさらの杉などを材木屋さんで上記のように皮を剥いてサイズ通りに拵える
この墓標角塔婆の大きさでステータスを競うみたいなのが存在した
葬儀当日埋葬した時に「こりゃ、すげーや」みたいに太く高いほど注目を浴びた という時代もあった
墓標と言うのはそもそも墓なのだから墓石があれば不要なのだが
当時はそうする事が亡き父母への孝行みたいのがあり
長老の翁が指南がそうさせていた
 通夜まえに墓標に墨で書するのだが
隣保班の男衆が墓標を扱うので手伝いで見ている
新米の僧侶は手が震える
力を抜くように思えば思うほど叶わない
角塔婆なので四面を総て記入する
まず最初一面にお題目と法号(戒名)を書く
墨をたっぷり付けて筆を走らせる
その行を書き終える頃
男衆の誰かが「流石、おっさんうみゃな~い」とあいのてが入る
「いい字書くら」などと酒を引っかけた兄さんが冷やかす
もちろん冷や汗タラタラ
お世辞にも上手とは言えないデビュー初書きの記憶が残る
その下手な墓標は時には何年も墓地にほったらかしにされるので
何時までもさらしモノのように置かれる事となる
その他は今でもある位牌旗などのもの
総て書くのに小一時間掛かった
今は30分あれば書くことが出来る

 通夜の開始時刻
平成になると午後6時
仕事帰りにも通夜に寄ることが出来る
昔の通夜は午後7時の設定だった
先ずみんなで夕食を済ませてから始めるパターン
書き物してからみんなが食べ終えた後のお膳に座らされて戴く
大概この時の食事は意外と美味しい記憶がある
何処でも名人が責任者になるので美味しい
自宅に祭壇を作ると部屋の半分はそれに取られる
昔の家の作りだと二部屋続きの間取りがあれば何とか凌げた
殆どの会葬者は外のテントにパイプ椅子を並べて其処から拝むパターンだった
小さいお宅でも同様で部屋間取りの都合で家族だけが家の中で
その他は全部テント付近へ集合
大きな農家へゆくと祭壇と生花を並べても余裕のお宅も多々あった
今の家造りからするととても出来ない
 家の中に作られた式場の内側には白黒の幕が張り巡らされる
これで家の中の見せたくない部分を隠す作用もあった
お棺の置き方は頭の方を北に向ける事は変わりはない
ただ昔は自然界の北に従って置いていたが
今は御本尊を中心とした北の位置なので必ず左にくる
 昔の葬儀は自宅で行うのが普通だった
故に夏は暑いし冬は寒い
特に夏は部屋内に白黒の幕を張り巡らすので風がなく暑い
扇風機を使用しても万人には届かず首降る動作が余計に暑く感じた
 より苦痛なのは寒中のお通夜
部屋の中に収まっている人や僧侶はまだいいけれど
外にて会葬者は凍えてしまう
外に置く煖房器具もあったけれど
それは自宅葬儀が終わる時期に近かったように思う
とにかくその昔は外の煖房もなく極寒かった
 施主から「今日は寒いのでなるべく早く頼みます」など
そう言う注文が入ることもあった
今でこそ通夜と言えば約40分くらいかけて行うけれど
昔極寒の時は15分~20分くらいで終えていた
終えてそのお宅から外へ出ると
外で会葬していた人から
「今日のは短くて良かった」と安堵の微笑みをかけてくれた
葬儀本番は短縮する事は不可能だが
通夜はそれが出来た
通夜の時
僧侶の控え室は自宅の何処かの着替えの出来る場所が与えられる
家によって様々で時には座布団1枚分の空間しか無いお宅もあった
隣保班から座布団をかき集め全員正座
式が始まると淀みなく進み焼香へ
家の中で始まると外の玄関または葬式部屋に近い処に焼香台が用意され
外にいる人々は各々焼香を済ませる
焼香を終えると直ぐに車に向かう人もいた
家の中はお香の煙だらけになり風向きでは非常に息苦しい場面も多々あった
 最後に遺族親戚の挨拶がある
今と違い正座をしていた時代殆どの人が足がしびれて直ぐに立てない
間合いを知っていてもなかなか立つことが出来ない
無理矢理立って歩こうとすると足が言うことを効かず前のめりに倒れる
若い人ほど経験が乏しいので転ける確率は高い
それを見て一同が笑う
故人の人生最後の儀式お通夜で思わず
「グゥフフ」と数名の声が聞こえる
息子である施主の場合は当分トラウマが残る
 施主とは
葬式の供養をする主人
葬式の場所を提供する主人のこと
 自宅葬儀の場合は僧侶の控え室として隣家の一間を使用した
30分ほど前に到着して自宅へゆき仕度
鳴り物の銅鑼ドラ鉢ハチ(シンバル)を設置して
導師席と脇僧席に座布団を確定する
再び控え室をゆき着替えると其処へ司会者が来て打ち合わせ
弔辞弔電等々を確かめる
行列をつくりお題目を唱えながら施主宅へ進み着座する
 司会者の言葉で始まりお通夜同様厳かに進む
読経・導師の引導が終えると弔辞となる
今は殆ど見かけないが
昔は原稿を持たずに思った事を辞する人
終わりそうでいて又伸ばし今度はもういいだろうって処でまたまた
 昔芝川では別れの杯って言う儀式があって式の前に導師と家族が一献傾けた
今でもあるのは縁切り餅の儀式
式中にもぐもぐ細かく切った餅を親戚中で食べること
亡くなったって縁を切るのはいかがなモノかと横目で見るが
昭年58年前後に一時流行ったのが放鳥の儀たるもの
出棺時に合わせて沢山の鳩を一期に放つこと
これは直ぐに廃れていった


 昔はドラとシンバル鳴り物で賑やかに
とは言え鳴り物は魔除け(音を立てて魔を寄せ付けない、追っ払う)だけど
厳かの中に豪華さも供えていた
坊さんは大勢の方が絶対にいいですよ
とまれ式を終えると控えの家に行列で戻る
その後出棺の行列を組むことになる
 葬式には行列が付きものだった
車のない時代に火葬場が町の中にあったのもうなずける
今では山奥にあるけれど
大昔は自宅から火葬場まで行列で進行した
ものごころ着く頃には自宅から霊柩車までの距離を行列した
今は葬祭会場の中を歩くだけ
 そもそも行列には大きな故人の氏名が書かれた旗(約3㍍幅70㎝)を先頭に
その後を五本旗(約1㍍幅30㎝)、茶器霊前等々位牌まで全部持つ人の芳名を読み上げる
行列に入る入らないで些細な物言いになった事もあった
山間部では霊柩車までの距離が長いので一苦労
今のように車輪のついた台は無かったので隣保班の男衆の責任となる
青竹一本切って来て棺に晒し布を回して時代劇に出てくる駕籠かごを数人で担ぐ
坂道となると大変なのは想像できる
雨が降れば全員カッパを着てこれも大難
 山間部の男衆は酒を飲んでいた記憶がある
酒で身を清めて故人を運ぶのだが
清め過ぎてふらふらになって担っている姿を思い出す
真剣に霊柩を運ぶ光景には熱いものを感じた
ご近所みんなでお送りする良き時代だった
 昔は火葬場につくとロータリーがあり
霊柩車が右廻りで3度回って竈の前に到着となる
環境が変わっても後は今と変わらない
焼き上がりに時間が掛かったぐらいだと思う
上がると寺に行き舎利(お骨)を三宝さまに上げお経
そして墓参り
隣保班が中心となって埋葬をする
平行して今は初七日のお経をするけれど
昔は四十九日忌が全盛期だったので
その時に四十九日忌明けの回向もついでに行った
何故四十九日忌を先に済ましてしまうかと言うと
忌明けにわざわざ来て貰うのを憚る為にそうしたそうだ
総て終えると払い膳をして解散となる
手作り料理とお店の料理が混ざって出てきた
そして実際の初七日となると
亡くなった日から六日目の晩に施主宅にみんなでお経お題目をする
この夜はお世話になった隣保班へのお礼をする会でもある
ご馳走をして一献してねぎらう
これが昔昔の葬儀の物語
心温まる隣保班の方々の力添えがありがたく感じるいい葬式でした
人を一人送ることの中で命の大切をしっかりと受け止めることが出来たと思います
 昭和59年にヒットした伊丹十三さんの映画『お葬式』がある
バブル景気に湧く直前のもの
小衲が丁度デビューしたての頃の話
はじめて葬式を出す家族が「何でこんなことやんの」
という気持ちがコミカルに描いている
死者を送る儀礼が表現されていた
関係者がみんなで送る   昭和の葬儀はこうだった
 結婚式場は無くなってもセレモニーホールまだ増えている
ごく近い親戚のみの葬儀
病院から火葬場に直葬するものが急増している
隣保班が手伝う事は絶滅寸前になってきている
有名人でさえも密葬のみにしてそれで伏してしまう
なんとも寂しい平成の葬儀
 子供達に迷惑が掛かるので私の時は最小限で質素にやって欲しい
と言うから子供達がそのようにすると
葬儀が終えた翌日から訪問者が沢山来て困ったって事を何度か聞いた事がある
故人を送るときに派手にする必要はないが世間一般に自然に伝える義務はあると思う
生まれた時にはみんなでお祝いするのだから
亡くなった時にもみんなでお送りするのがいいに決まっている
別れを悼んで一人ひとりの胸の中で共に生き続けてもらう
死を見つめることで自分の命の尊さが理解できる
葬儀ってそう言う場所なのだと感じます 合掌

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