正しい仏教

2018/10/15

仏教には六道輪廻は存在しない(カースト制度故の存在)
 六道(ろくどう、りくどう)とは、仏教において迷いあるものが輪廻(生まれ変わることではなく、その場において)するという、6種類の苦しみに満ちた世界のこと。
 仏教成立以前の古代インド思想を起源とし、原始仏教においてはさほど重大な意味を為さない。体系化が進行したのは後代と考えられる。
 インド・中国起源ではないが、日本では11世紀ころ、六道の各々に配当された六地蔵が各所に祀られ、大いに庶民から信仰された。
 仏教成立以前の古代インド思想を起源とし、原始仏教においてはさほど重大な意味を為さない。体系化が進行したのは後代と考えられる。
 ◆ ご存知と思いますが、六道とは地獄・餓鬼・畜生・人間・修羅・天の6つの世界のことで、私たちはそこを生まれ変わり死に変わりしている。良い事をすれば人間界や天界に、悪い事をすれば地獄界や修羅界に生まれていく。そして仏教の最終目的は、この六道輪廻から脱することです。
◆大昔の人はこの六道世界を実際に存在する世界と思っていたかもしれませんが、現在はここのさんの仰る通り、この世というか自分の心の状態、と捉える場合が多いと思います。
天:楽しみが多く、浮かれている状態。
修羅:怒りに支配され争いが絶えない状態。
地獄:相手の言葉を聞けず、理解出来ない状態。
餓鬼:あれもこれも欲しいと貪る状態。
畜生:愚かさに支配されている状態。
上記の5つの世界は、楽か苦に極端に触れています。天は理想の世界ではなく、仏教ではそこも脱さなければいけない境地です。
もうひとつ残った人間界は、楽もあり苦しみもある、ニュートラルな状態です。そして人間は、苦楽が共にあるこの世界でないと、悟りを目指せないのだと思います。
ここのさんは以前、嘘つきでずるい人間だったと仰いました。確かに餓鬼や畜生、修羅の心だったのかもしれません。
しかし今はそれを反省し、後悔しているのですね。その状態は地獄ではないと思います。嘘つきでずるい自分を正当化し、相手をけなすのが地獄の状態です。反省と後悔に苛まされているここのさんの心は今、人間界にあるのではないでしょうか。自分が他者にかけた迷惑をちゃんと認識し、現世での因果を現世で受けとめようとなさっていますね。今この時がここのさんにとって、成長へと繋がる修行の時なのではないでしょうか。
◆六道輪廻はあると言えばあるかもしれませんが、このような思想はインドのカースト制度からきております。お釈迦様が仏教をお開きになった理由の1つに当時からバラモン教を媒体としたインド社会(カースト制度から)から人々を解放するためと言われております。直接カースト制度を批判すると弾圧を受けるので「天・人間・修羅・餓鬼・畜生・地獄」と名前を替え、ここからの解脱をするという信仰を興しました。だから、仏教では決して差別はしてはいけません。
 いま日本では憲法下、自由と平等が約束されています。ですから、ここのさんのように自分の生き方の1つとして信仰する分には良いものだと思いますが、ただ、来世に転生するさいはどれがどうのとは言わないで、今自分の心理状態がどうなのかという指針に留めておいて頂きたいです。他人を六道に充てて批判したりするのもいけませんよ。  これを機に困っている人、いじめられている人、非難にあっている人を助けたり、寄り添ったりする心を持って頂きたいと思います。助け方は色々あると思いますが・・・。
◆釈尊が生きていた当時、古代インドの社会制度や生活慣習にも大きな影響を与えていた「バラモン教」には、既に輪廻思想の源流が説かれています。 更に、釈尊が、人々の苦悩の根源は何かと思索を重ね、試行錯誤を繰り返していた数年間、当時勃興していた革新的思想哲学の代表的な教え=六師外道の中に、ジャイナ教というものがあり、その教えにも後に仏教の輪廻観の基になるものがあります。
仏教における輪廻(生死流転を繰り返す生命の本質)の実相は、現代科学で言うと
「エネルギーそのもの」と置き換えることができます。(ジャイナ教的な永続的常住の霊魂のような存在は否定) 現象世界において、一人の人間は、この世に誕生した時に心身両面の確かな存在として認識され、死を迎えて、その人は認識し得ない存在になりますが、その人を、その人たらしめている根源とは何か。
 認識世界における存在(結果)があれば、認識世界の奥底に、存在を成立させている根源の法(因)がある。それこそが生命の実相ではないか。そこから輪廻観や宿業論が誕生していきます。それは、現代科学の「エネルギー不変の法則」にも通じます。
アインシュタインが、原因・結果という観点に立脚した、科学と矛盾しない宗教として、 仏教に大きな興味と期待を抱いた理由もそこにあります。
「輪廻観」「四諦の法輪」「宿業論」「十界論」等々や、その集大成である「十界互具論」、 「一念三千論」等は、経典の中には、断片的に散りばめられているだけで、体系化されては いません。「仏教」の教えには、「経」「釈」「論」の三種があり、「経」は釈尊の教説を纏めたもの。「釈」は、後の仏教実践者や研究者が、「経」をその時代、文化に即して解釈したもの。
「論」は、「経」「釈」の法義について、分かり易く展開したものです。
釈尊が説いた教説の数々は、対機説法と言って、法を説く明確な相手がおり、その相手の機根を的確につかみ、その相手に必要とされる教えを説いたものが殆どです。
(法華経以前の経典は「方便」で「未顕真実」には、こういう事情も含まれます)
しかも、釈尊自身が、自らの教説を文字に遺したものはないし、釈尊在世中の弟子達も、 師・釈尊の言葉をその都度文字に書き留めることをしていません。
それは、当時のインドに文字文化がなかったからではなく、高い思想・哲学は文字に留めず、 口伝によって継承し、広めて行くという土壌によるものです。
 釈尊が入滅後、法滅の危機を感じた弟子達が集まって、それぞれが聞いた言葉や内容を文字として編纂していきました。
(第1回目の経典大結集→小乗教/第2回目の経典大結集→大乗教)ですから、どの経典もその書き出しは、「如是我聞(このように、私は聞いた)」で始まり、 「而去作礼((説法の内容を言い終えた者が)礼をして、去っていった)」で終わっています。
初期梵字経典の中に、「ダンマパダ」や「スッタニパータ」がありますが、これらの経典にも輪廻思想が記述され、「善趣」、「悪趣」「地獄」等という言葉が登場します。
サンスクリットの原始経典や初期経典は、殆どが体系化されておらず、短い時間の会話の様な断片的な教説という体裁ですが、小乗教や大乗教として編纂されて行った経典は、釈尊が他方面に遊行し、時間を前後しながら説いて行った教説が、その内容ごとに纏められています。
  経典が漢訳されるまでには、通って来た国、民族、時代、社会性が反映されます。
経典には、奇想天外な比喩が随所に出てきますが、釈尊入滅から千年くらいまでの時代の人達は、そういう表現で、仏教の有難さを理解していたのでしょう。
  時代が経つにつれ、インド各地や伝承された隣接地域の知識水準が高まると、各経原典の教えから、誇大な比喩表現を排し、断片的に散りばめられている真実の言葉やその意味を体系的に纏め、論述書を著す「論師」と言われる人たちが現れます。
小乗教の論師・世親の『倶舎論』には、「天」「人」「畜生」「餓鬼」「地獄」の「五趣輪廻」の説が見られます。この五趣に、「修羅」が加わり、「六道輪廻」が完成します。
更に、大乗仏教の成立で、輪廻の呪縛から解放され、自らの資質と意思と行動で、その上の境界である「声聞」「縁覚」「菩薩」「如来(仏)」の境遇を目指そうと、六道と併せて十界を立てました。 釈尊の悟りや教えの中に、輪廻という概念は確かに含まれているが、それを、各時代の仏教実践者達が理論として完成させていったと見るのが正解です。

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