三法印

2018/11/03

 お釈迦さまは悟りをひらかれた後、まず最初に、ともに修行した5人の仲間たち、それが最初の弟子たちなのですが、その人達に法を説かれました。それがいわゆる初転法輪(しょてんぼうりん)というものです。
その最初の説法で三法印という三つの旗印をかかげられました。その旗印が「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」です。
お釈迦さまの教えで一番大切なことは、この世の道理、仕組みををしっかりと心に持ちなさいという三法印(三つの真理)の教えです。
 お釈迦さまは29歳で釈迦国の太子の地位をすて、ヒマラヤの山にこもられ、6年の厳しい修行のあと35歳でお悟りを開かれました。それから45年の間、そのお悟りの聖い教えを説いて巡られましたが、やがてクシナガラの町外れサーラの林で80歳のご生涯を終えられました。その日は2月15日、満月の夜であったといわれます。
 お釈迦さまは別れを惜しんで集まった人達に最後の説法をなされました。
「生まれたものは必ず死ぬのであって、誰しもが諸行無常(意・一切は変化する)の道理にさからうことはできない。それゆえ諸法無我(意・一切は所有できない)の道理をさとって欲を少なくしなければならない。そこに涅槃寂静(意・永遠のやすらぎ)に入るさとりがある、と最後のお説教にも三法印(三つの真理)を説かれました。
 その三法印(三つの真理)についてお話致します。。

 諸行無常(あらゆる一切のものは無常である)私たちは自分が死ぬとは考えない、ところが病になったりすると、あっちの神様、こっちの神様と奇跡ばかり追い求めて、あるいは不老長寿、息災延命の現世利益ばかり求めていく訳です。それが迷いの中にあるときは、それが迷いであるということすらわからないのです。
「色は匂へど散りぬるを、わが世誰ぞ常ならむ」という「いろは歌」の意味は「美しい花もほどなく散ってゆくように、この世のすべてはうつりかわってしまう」という諸行無常の教えを詠んだものであります。
道元禅師さまも「観無常心は発菩提心なり」と示されておりますが、私たちがこの世のはかなさを悟ったとき、人は永遠の真実を求める仏心にめざめるのであります。

 諸法無我(執着しないということです)執着を呼ぶものが「我」であります。私たちはながれいく「もの」あるいは「こころ」を我がものとして執着する。それゆえ苦の世界を作り出してくるのです。一切が無我であるとは我と我がものと思えるものは何もない。すべてが「われ」を離れて因縁によって移り変わるものであるという自覚です。
人間の苦悩や争いの原因はみな欲であります。人間は誰しも欲のないものはありません。けれどもその欲をほしいままにすれば、俺が俺がの貪欲となってあげくは互いに憎しみ争うことになります。
ところが、その欲の対象である財産も、地位も、名声も死ぬときには全部この世においてゆくのであって、生きている間はあずかっているだけであります。ののしった人もののしられた人も、儲けた人も損した人もみんな消えていくのです。
そこの道理を諸法無我(一切は所有できない)とさとることが「有為の奥山今日こえて、浅き夢みし酔いもせず」ということになります。

 涅槃寂静(縛られた世界から解放された世界、広い世界を涅槃寂静といいます)涅槃という言葉は簡単にいえばさとりという意味です。つまり、自我以前の世界、自我を超えた世界といってもいいでしょう。
道元禅師さまは「仏道をならうというは自己をならうなり。自己をならうというは自己をわするるなり」とさとされました。私たちが自分を忘れて世のため人の為に生きるとき、永遠のいのちである滅びない仏のいのちとひとつになるのです。
小さな己の欲望に執着せず、自分を世のため人のためにささげてしまえば、もだえる自己は無くなります。それはそれこそ、悩み無きやすらかな人生であります。その人生を涅槃寂静(永遠のやすらぎ)といいます。

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