本当のしあわせとは

2018/11/04

「最上の幸福とは」
◇ 諸々の愚者に親しまないで、諸々の賢者に親しみ、尊敬すべき人々を尊敬すること、--これがこよなき幸せである。
◇ 適当な場所に住み、前世には功徳を積んでいて、みずからは正しい誓願を起していること--これがこよなき幸せである。
◇ 博愛と、技術と、訓練をよく学び受けていること、弁舌巧みなこと、--これがこよなき幸せである。
◇ 父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと、--これがこよなき幸せである。
◇ 施与と、理法にかなった行いと、親族を愛し護ることと、非難を受けない行為、--これがこよなき幸せである。
◇ 悪を厭(いと)い離れ、飲酒を制し、徳行をゆるがせにしないこと、--これがこよなき幸せである。
◇ 尊敬と謙遜と満足と感謝と時々教えを聞くこと、--これがこよなき幸せである。
◇ 耐え忍ぶこと、温良なこと、諸々の道の人に会うこと、時々理法について論議をすること、--これがこよなき幸せである。
◇ 修養と清らかな行いと聖なる真理を見ること、安らぎを証すこと、--これがこよなき幸せである。
◇ 世俗の習慣に触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れなく、安穏であること、--これがこよなき幸せである。
◎ これらのことを行うならば、いかなることに関しても敗れることがない。あらゆるところで幸福に達する。--これがかれらにとってこよなき幸せである。
                   (岩波文庫青二八八〃ブッダのことば〃より)
しあわせ説法を要約すれば次の三つになるのではないかと思います。
第一には、人生の師、導きてを持っている人は幸福であるということです。『諸々の愚者に親しまないで諸々の賢者に親しみ、尊敬すべき人を尊敬すること、--これがこよなき幸せである』と説かれてあります。尊敬すべき正しい人生観を持っている人に親しむことですね。これは、いわゆる先生といわれる人でなく、親や、兄弟や、友人であっても、あるいは秀れた先人の書物でも良いわけでありましょう。もし、お釈迦さまを尊敬し信じて、その教えに従うという心をおこすならばその人はお釈迦さまを人生の師と仰ぐことができるのであります。
第二には、みずから正しい誓願をおこしている人は幸福のひとである、と説かれてあります。自分の人生で努力すべき正しい目標を持つことですね。心に努力すべき目標、誓願がないと、その日ぐらしにおちいって、遂には不平不満、愚痴の人となります。たとえば、一家の主婦として家庭をつくる、よい子を育てる、世間に少しでもお役に立つことをしたい、事の大小を問わず、その人にふさわしい努力目標を持っている人は、不幸や災難の連続でも決してくずれることの無い強い支えを持つことが出来ます。ここに正しい誓願というのは、利己主義でなく、自分も他人もそれで益する、為になるという精神が含まれていることです。
第三には、自分を信じ、自分を生かすことに努力している人は辛福なひとであると、説かれてあります。仏教の幸福観は、富や健康などの万人にとってのぞましい状態を決して否定したり無視するのではありません。ただ部分的に追いかけて血眼になる愚かしさを避けるのです。もっと根本的に、人間はいかに生きるべきかという生き方、生活態度に幸福の扉を発見しようとするのであります。
つまるところ、どうしたら幸福になれるかということは、幸福はそれを目的として探し求めるべきではなく、よき生活態度、一生懸命に生きることから結果として恵まれるものであるということでしょう。
善(よ)きことを作(な)すものは
いまによろこび
のちによろこび
ふたつながらによろこぶ
「善きことをわれはなせり」と
かく思いてよろこぶ
かくて幸ある行路(みち)を歩めば
いよいよこころたのしむなり
    (法句経・18)

「善きこと」というのは、深い思慮から出た自然の行為をいいます。それを「利行」(りぎょう)といいます。利行というのは、相手に自らの力をつくして、ただひとえに行う良き行いであって、それに対する見返りとか報いとかを求めない心です。見返りを考えないから、行いをなし終わったことに対する満足感が生じてきます。それが「いまによろこぶ」心です。
 道元禅師は「衆生を見るに、先ず慈愛の心をおこし、顧愛(こあい)の言語を施すなり」といい、さらに「面(むか)いて愛語を聞くは面(おもて)を喜ばしめ、心を楽しくす、面わずして愛語を聞くは、肝に銘じ魂に銘ず」と示されたように、まずやさしい言葉のかけあいが、何よりの「善きこと」のはじめではないかと思うのです。
 「善きことをわれはなせり」、誰にほめられるでも、誰に認められるでもありません。その陰徳はそのまま自分自身の生き甲斐となって、自分自身の人生をうるおしてくれるのです。
 そして、それが、私たちが快適に生きていくための大切な羅針盤でもあります。
快適というのは快楽とは違います。気持ちイイんではなく、ずっと普通でいられること。快楽はそれを続けると飽きてしまう限界というのがあります。
 芭蕉の俳句に「おもしろうて やがて哀しき鵜舟かな」というのがあります。アユをさかなに女性を侍らせ・・・お酒でもいただき、鵜飼いを楽しんだであろう芭蕉も、楽しさの頂点を過ぎてふっと空しい気分になる。
又、漢の武帝が「秋風の辞」に「歓楽(かんらく)極まって、哀情(あいじょう)多し」と詠んだものと同じものです。遊び、楽しむ快楽が感極まっても心までうるおうというものではないのです。
快楽というのは幸福の条件ではありません。勘違いしないようにしたいものです。
話しを戻します。
 「善きことをわれはなせり」。自分にできることは何でもいいんです。他人に施す財が無くてもできる  「無財の七施」という教えもあります。道路を掃除することも、老人や子供をいたわることも、身障者や困窮者への協力も、財のあるものは財力をもって、力ある者はその力に応ずるままに、「はからいを捨てて、世の人の為につくす」ことこそ最上の人の道であろうと思うのです。

 

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