2024/10/25
先日ある家へ行きましたら、仏壇前に「心ばかり」と書いたのし紙付きのし箱が供えられておりました。贈り主の名前入りです。最近は、のし紙に書く語も変わり、くだけた表現も登場するようになったのでしょうか。「心ばかり」とはもちろん、人に金品を贈る時に謙遜の意を込めて言う語ですね。
「ばかり」は副助詞で、物事を限定したり程度を示したりする語ですから、心ばかりとは、心の段階で止まっていて、それ以上でないということになります。では、「心以上」とはどうなることでしょうか。
心(意)があれば必ず語(ロ)に出ますし、それは体(身)で表現することにつながります。たとえば、怒ると口からは怒りの言葉が発せられ、暴力へとつながりますし、感謝すれば「ありがとう」と口で発しながら、頭を下げる動作をするでしょう。仏教では三業相応と申しまして、身口意の三者の釣合いをとることが大切とされています。人間はこの三者によって悪いこともすれば善いこともするわけですね。悪いことは「心」(意)の段階で止めなければなりませんが、善いことは「ロ」からさらに「身」へと進めましょう。心ばかり、ロばかりでは、いまいちなのです。ところで「心ばかりなのですが……」と言いながら相手に金品を贈る時は、すでに心ばかりではなくなって、実行に及んでいますね。金品の量が少ないので謙遜してそう言うのですから、これはこれでよいでしょう。のし紙などに書 く場合には、同義語で「寸志」とか「微意」「薄謝」などがあります。礼儀作法にうるさい人が、あまり語の使い方をあれこれ言いはじめると、その語は一般化されなくなってしまいます。間違うより無難な方を用いようとするのが庶民でしょう。
のし紙に書かれる語も、時代とともに変化してゆくのでしょうか。
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