2025/01/31
いまの私たちの生活はあまりにも忙しく、スケジュールに追いかけまわされて、物事をゆっくり考える暇がありません。いや、暇はあるのですが、暇っぶしばかりをして、本当の暇を作ろうとしないということでしょうか。ただ、ロボットのように動きまわっているだけで、自分が何をしているのかさえよくわからない有様です。しかも、そういった現状について自覚が足りないのではないでしょうか。せめて、少しでも自覚症状があればいいのですが…。
さて、このように使われる「自覚」とは、どういう意味合いをもつ語なのでしょうか。これについて少し考えてみましょう。
「自覚」とは、単に意識の有る無しを言うのではなく、文字通り自ら覚ることを指します。もちろん覚る内容は真理ですね。仏教でいう「真理」とは苦集滅道の四諦のことで、この世の実相を指しますから、本当に自覚することは覚ること、つまり成仏することになります。
自覚に対して、他の人を覚らせることを「覚他」と言います。大乗仏教では自覚ばかりでなく覚他も大切で、すべての菩薩さまたちはこの自覚?覚他の覚行を実践するという願をもっておられます。
自覚しないことを指す言葉に「不覚」がありますね。<私としたことが不覚をとってしまった>等と使われますが、この不覚は「本覚」に対する語であり、本覚とは、現象界の様相を超えたところにある究極のお覚りを言います。 簡単に言えば、本物に気づくのが本覚、気づかないのが不覚ですね。酒に酔って前後不覚などという輩は、前後どころか真ん中も含めて全部が不覚といえましょう。
本覚を自覚・覚他して、自らハッキリ眼を覚ますとともに、他の人の眼も覚まさせ、くれぐれも不覚をとることのない毎日を過ごしたいものです。
しがなき凡夫とおろそかに、思いすごせし愚かさよ
無明の眠りの夢覚めて、尊き身をば今ぞ知る
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