2025/03/21
「自由」と「自在」は、ほぼ同じ意味を持つ語のように思われがちです。ましてや、「自由自在」という熟語となつた場合には、なおさら同意語を重ねて使っているように考えてしまいます。しかし、この二つの語にはそれぞれに深い根拠があるのです。
まず「自由」ですが、これは明治以降の出版物の中で、英語の「フリーダム」や「リバティ」の訳語として使われたことから、逆にそれらの英語に対する解釈が、「自由」という語にも当てはめられてしまったきらいがあります。
<自由とは、外的拘束や障害を受けないこと>というところまでは、「自由」にも「フリーダム」にも共通しているのですが、自由でないのは他からの力が加わるからだとして、自由でない理由を他に責任転嫁することは、仏教語としての「自由」にはふさわしくありません。古来より使われてきた「自由」の本来の意味は、自らに由つて営みをすることであり、身心脱落したさとりの境涯を指す言葉なのです。煩悩がつきまとっている間は本当の自分が見えず、自分で自分のことが分かりません。一日も早く本当の自分に出合って迷いのない生活をすることが大切だというわけです。
次に「自在」とは、そのようにして取り出された本来の自分が、一切の束縛を離れて自ら存在する<煩悩を離れて自分を自分の思いのままにできる> ということです。仏教では、他を云々するより、自己改革によつて自由であり自在である理想境を得ようとしているわけですね。どんな世界に住むことになるかは、三界唯一心、つまり心がけ次第といえましょう。自由自在な心の人を自在人といいます。また、神様に自在天という方がおられますが、自在天とは世界を自在にあやつる天地創造の神様ということで、六欲天の天主を言います。
この神様がキリスト教のゴッドに似ているせいか、キリスト教を天主教と呼んだりもしました。しかし、仏教の考える神様は人に自由や自在を与えるものではありません。真の自由を得た自在人・・・すなわち仏こそ理想の存在であり、私たちもまた、自らに由ることでこの仏に成れるのです。
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